玉泉

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NHK大河ドラマ「青天を衝け」主人公 渋沢栄一先生と下田 ①

 今週から放送が始まったNHK大河ドラマの主人公である、渋沢栄一と下田市のかかわりについて当寺の記録から10回にわたり紹介します。

 今年のNHK大河ドラマ「青天を衝け」、その主人公は渋沢栄一です。また2024年には20年ぶりに紙幣が刷新され、1万円札は福沢諭吉から渋沢栄一に代わることになった。新しい日本の顔である。

 渋沢栄一の生誕地、埼玉県深谷市では市を挙げてその功績、精神,生きざまを顕彰し宣伝している。市役所新庁舎も完成し栄一ブーム一色である。近代日本の礎を築いた偉人の人生哲学の一端がここ下田市にも残されている。

 栄一は1840(天保11)年、武蔵国榛沢郡血洗島村で生まれた。この年、中国ではアヘン戦争が勃発している。1856(安政3)年、ハリスが下田に着任した時、栄一は血洗島村で16歳を迎えていた。栄一の家は農作、養蚕、藍玉の製造を行う豪農であった。黒船来航からハリス下田着任とうい時代の荒波の中、栄一は23歳まで故郷に暮らしていたが、63(文久3)年11月に住み慣れた故郷を後にして、大志を抱き江戸に上がった。ハリス公使は既に前年の62(文久2)年4月に米国に帰国していたので、ハリスと栄一とは直接の接点はなかったのである。しかしこの二人は同じ時代を生き、日米両国にそれぞれ偉大な功績を残したのである。

 ここで渋沢栄一について少し触れておきたい。血気盛んな栄一は大志(尊王攘夷)を抱き江戸に上がると、その思いとは裏腹に一橋慶喜の用人、平岡円四郎に仕え一橋家の家来となる。67(慶應3)年、慶喜の弟昭武に随行してナポレオン3世の開いたパリ世界博に参加したのだが、栄一はこの欧州旅行で数々の見聞を広めることになる。銀行の仕組みと株式会社の概念である。これらはその後の栄一の人生に大いに役に立ったのである。

 帰国すると既に徳川の時代は終わっており、栄一はその有能さゆえに幕臣でありながら、明治新政府に仕えることになった。大隈重信の強い要請により大蔵省に入省。しかし栄一が新政府に在職していたのは僅かの期間だった。大久保利通とは全くそりがあわず、約4年で野に下ることになる。新政府を辞した後は実業家として第一国立銀行、王子製紙などの近代企業の設立に尽力し、晩年は公益事業、社会福祉事業に尽力した。

 その後、当山二十五世村上文機和尚の時代(大正15年から昭和2年にかけて)に、この日本近代経済の父によって玉泉寺は【日本開国の史跡】として現在に残されたのである。

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