玉泉

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「青天を衝け」主人公 渋沢栄一先生と下田 ③

 

玉泉寺外観.JPG

 こうして事業着手の第一歩を進めるわけであるが、一介の田舎寺院の住職がいかなる方法でこれを実現すべきかは、実際のところこれといった計画も妙案もない中で、手探りの船出であったろう。事実、一番の頼りの綱とした当寺檀信徒への働き掛けや協議会等の開催では、本堂の大修繕、庫裡の建築等の賛同を得ようと懸命の努力をするのであるが、その当時はまだまだ自分たちの生活の維持が精一杯の時代であって、生活に余裕のある家はまれであった。また檀信徒側から見れば、住職して日も浅い若僧が、夢のような遠大な計画を持ち出した訳であるから、猜疑の目を以って見られた面もあったろう。信用の程度がまだまだ弱かったのである。また行政の補助などということも難しい時代であった。

 そんな中で檀信徒総会を何度開催しても、一向に真剣味のない名ばかりの会合となり、結局は檀徒として深く関与することはできぬが、住職として心配してくれることなら結構なことであるから、存分におやりなさいという結論になったのである。まずは反対ではなく良いことだけれども、寄付などはできないという、やんわりとした拒否であった。何事も始まりはこのようなもので順風満帆とはいかない。失望と落胆に眠れぬ日々を送る若い文機和尚は、やがてその運動を東京に活路を開くべく上京していくのである。

 わが国近代文化の揺籃(ようらん=物事発展の初期の意)たる史跡の保存を図ることを不退の決意として胸に抱き東奔西走の日々を送り、日夜心を砕いたのである。上京した若い和尚は史跡保存運動に専心、没頭する。そんな中、少なからぬ同情と援助を与えて下さる理解者に恵まれ、添田寿一(実業家、経済学者、近代日本設立の功労者の一人)を紹介され、添田を頼りに段々と日米協会関係から渋沢栄一への道が開かれていったのである。

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