「青天を衝け」主人公 渋沢栄一先生と下田 ⑥
ここに渋沢子爵より、日米協会会長徳川家達(いえさと)公爵への書簡がある。全文を記したい。
「拝啓益々ご清適奉賀候、然らば伊豆下田町東南柿崎の玉泉寺は、辺鄙の一小寺に候処、安政開国の初め米国総領事タウンゼンド・ハリス氏の駐箚(ちゅうさつ=駐在)に依って外国使臣館となり、遠く海外にまで名を知らるるに至り候。ハリス氏はご承知の如く、勇敢真摯の士にして、当時世界の体制に疎き我国に対しても威圧を加ふるが如きなく、穏忍耐久三年の久しきに亘りて誘導啓発し極めて公平なる通商条約を締結し、以って後来諸外国をしてその規範超ゆる能わざらしめ候のみならず、爾来(じらい=それ以来)頻発せる幾多外交上の葛藤に対しても能く我が国情を察して常に懇切穏当なる態度を持し、多大の便益を得せしめたる。申さば我が国開国の恩人に御座候。然るに横浜開港と共に下田港閉鎖せられ米国国旗撤去せらるるに及びて玉泉寺は復昔日の寒村となり了り、爾来六十年の星霜を経て幕末維新史上忘する可からざるこの遺跡も甚だしく荒廃致し、徒に雑草に埋もるる事と相成候。
同寺住職檀家並びに関係郡長、町村長等深く之を慨し今回汎く資を募りて堂宇を旧観に復し、もって永く後世に伝えん事を謀り、老生の援助を求められ候。老生も現今、日米国交上の関係に鑑み坐に感慨止み難きもの有之。如何にもして其の計画を成就せしめ度と存候間、誠に勝手なお願には候得共、何卒御会に於いて此の挙を賛せられ、右復旧費御補助被成下度特に御依頼申上候。
敬具
大正14年5月13日 渋沢栄一
日米協会会長公爵 徳川家達 殿
追啓 本文の復旧費は東京に於いて金壱万円を募集致度趣に有之、即ち小生の寄付金壱千円を差引き金九千円也御会より御援助を仰ぎ度く存意に御座候。猶(なお)本件に付御用の儀も有之候はば玉泉寺住職並に関係者何時にても参上可仕候。尚忘する可からざるは、バンクロフト大使閣下の多大なる御厚意と御援助に有之、既に三百円也御寄付被成下候」
この頃には、若き住職の道念も認められ、当寺檀信徒、地元行政一丸となって復興に乗り出したのである。ところでこの時代の事業費1万円は現在の価値に換算すると、どの位の金額であろうか。当時(大正末期)の物価、給与等比較対象の基準によって幅がある。例えば当時の大卒サラリーマン月給50円、現在21万円、そば・うどん10銭が現在600円、大工職人の日当が3.5円、現在2万千円、給与所得者の平均年収741円が現在420万円等一概には言えないが、概ね5千倍で妥当と思われる。つまり本堂大修繕の事業費1万円は現在の5千万円に匹敵する。子爵の寄付千円は500万円ということになる。こうして日米協会の徳川侯爵と米国大使の援助をいただき、地元では当寺檀信徒、浜崎村、下田町関係者の全面的な協力体制も整い、1926(大正15)年10月本堂の大修繕に着工したのである。あわせて檀信徒の浄財により庫裡の新築計画も持ち上がり、更にハリス記念碑の境内への建立が渋沢子爵によって計画され進められた。この記念碑の建立にはバンクロフト大使の友人で丁度来日していたシカゴの富豪ヘンリー・ウルフ氏によりポケットマネー150ドルが寄付されている。この碑の裏面、即ち碑陰の文は子爵自らの千字に及ぶ文章が揮毫(きごう)されている。
この石碑であるが幅1.3メートル、高さ2.7メートル、厚み20センチの白御影の一枚ものである。台石は長さ1.67メートル、幅90センチ、高さ36センチである。これだけの石材の切り出し、彫刻、運搬、設置には一方ならぬ苦労をしたようだ。本堂大修繕、ハリス記念碑建立の工事を請け負ったのは子爵が役員を務める清水組であり、現在の清水建設である。