「青天を衝け」主人公 渋沢栄一先生と下田 ⑦
この石碑であるが、太平洋戦争下では受難を被る。玉泉寺境内の記念碑は、「敵国と交戦中なるとき、標記の碑、平然と親善顔して存立するは、一般村民の風評とあいまって、時局柄、不適当ならんかと存じ候。ついては、この時にあたり、ぜひ除去あるいは取り壊し・・・」との公文書が浜崎村役場から送達されたのでした。渋沢事務所とも相談した結果、時節柄やむを得ないとの結論となり、実際には昭和20年2月頃に倒され、終戦までそのままの状態だったようです。破壊されなかったことは、奇跡的な幸運でありました。
1920(大正9)年の夏、文機和尚の史跡保存の発願から足かけ7年の歳月を要し、ここに27(昭和2)年10月本堂の大修繕、ハリス記念碑建立の一大事業は無事完了したのである。
米寿を迎えられた大人は、この一大事業完成の式典のため、東京から玉泉寺に御出張なされたのであります。この時のご様子が大人令嬢の穂積歌子女史により「伊豆の旅」という紀行文に残されている。美しい文章、格調高い和歌を随所に織り込みそれはみごとな紀行であります。それによれば、昭和2年9月30日、大人一行7名は東京駅発9時30分の特急列車で沼津にお着きになり、東京から差し回しの自家用車2台に分乗し修善寺の新井旅館に宿泊された。高齢のためお付きの看護婦同道での旅でありました。新井旅館では歌子様は次の和歌を詠んでいる。
・清らなる湯にひたり居れば我身さへ とけてゆけたを流れ出んとす
明けて十月一日青淵先生日和の好天気、一行七人九時ごろ、新井旅館を出発。稲穂が半ば色づき彼岸花の咲く下田街道を天城山に向かった。
・雄々しともゆかしとも見し其山の 山ふところに今そ入りぬる
・今よりはこの谷水の清き香も そへてわさびは味わひてまし
羊腸たる山道を峠に近づく。隧道(ずいどう=トンネル)を出たところで、清水組の社員3,4人がテーブル、椅子を並べ式典参加のため後から来る徳川侯爵等にお昼の弁当を差し上げるため待機していた。