玉泉

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「青天を衝け」主人公 渋沢栄一先生と下田 ⑨

 こうして記念式典は1927年(昭和2)年10月1日、秋晴れの青淵日和の中、挙行された。チャールズ・マクベー駐日米国大使、徳川家達公爵、樺山愛輔伯爵、坂谷芳郎男爵、大倉喜八郎氏外、日本を代表するそうそうたる顔ぶれであった。ハリス記念碑の四隅には米国大使、徳川侯爵、渋沢子爵によって月桂樹のお手植えがなされた。この月桂樹は今も青々とハリス記念碑の四隅に芳香香んばしく100年に届く植生を誇っている。歌子様の短歌が残されている。

・立て初めし 旗手の風は今もなお ふた国かけて なこやかに吹く

 こうして鄙びた田舎の一寺院が青淵先生(渋沢子爵)によって開国史跡として現在に残されたわけであるが、先生は文機和尚が訪れた大正11年を遡ること13年前、つまり明治42年、渡米実業団の団長として米国に渡った。この時、青淵先生はタイトなスケジュールの中、わざわざニューヨーク・ブルックリンにハリスのお墓をお参りしている。(ハリスは1878年=明治11=年に74歳で亡くなっている)日本に対するタウンゼンド・ハリス氏の偉大なる功績に対し、日本を代表して墓参なされたのである。香華を手向け、時恰も晩秋、墓畔の楓葉は錦繡の如く紅葉し、故人の丹心と相映ずる思いがあったそうである。ここで詠んだ先生の歌がある。

・今もなお、君が心をおくつきの、夕日ににほう紅葉にぞ見る。

 おくつきとは、お墓のことである。文機和尚が訪れる十数年前から、青淵先生はハリスの偉大な功績に対し赤誠の念、正当なる評価を抱いていたのである。下田にとっても玉泉寺にとっても幸運なことであった。

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