国指定史跡 ディアナ号・アスコルド号乗員墓について③
岡山大学名誉教授 保田孝一氏の寄稿文 前編
◎墓碑は友好のシンボル
下田市柿崎の玉泉寺にアメリカ海軍軍人の墓碑五基、その近くにロシア海軍軍人の墓碑三基がある。150年前に開国を求めて来日したアメリカのペリー提督、ロシアのプチャーチン提督、ロシアのプチャーチン提督の部下だった軍人の墓である。これは日米・日露の友好のシンボルになっている。
2001年1月、元東大史料編纂所所長、宮地正人氏と一緒に、サンクトペテルブルクのロシア海軍文書館館長ミシャノフ氏を案内して、この異郷に眠るロシア人の墓碑の前に立った。
三基の墓碑は横に並んでいる。ロシア文字の墓碑銘によると、安政の大地震の時、下田港に停泊していた軍艦ディアナ号上において、崩れ落ちてきた大砲の下敷きになり圧死した水兵アレクセイ・ソボレフの墓碑が中央に建ち、その右側に下士官アレクセイ・ポトチキン、左側に水兵ワシーリー・バケーエフの墓碑が建っている。ポトチキンはロシアの軍艦ディアナ号が駿河湾に沈没(1855年1月)した後、ロシア人が帰国の時まで滞在していた戸田村でどうねん3月に病死し、バケーエフも同年5月に戸田村で病死したとある。
戸田村で死亡したロシア人の墓がなぜ下田にあるのか。この時代、日米和親条約、日露和親条約で幕府は、アメリカ人とロシア人が死亡した場合、玉泉寺に埋葬すると約束していた。従って戸田村に仮埋葬され、幕府の許可をもらってから、遺骸を下田の玉泉寺まで運んで改装された。
玉泉寺のロシア人墓碑に関するもう1つのビッグニュースがある。安政5年(1855年)プチャーチン提督と一緒に軍艦アスコルド号で下田に来訪し、船内で事故死し、この寺のロシア人墓所に埋葬されたが、これまで145年間も氏名が不明だった第4のロシア人がいる。ロシア海軍文書館館長ミシャノフ氏の墓参がきっかけとなり、その氏名が明らかになった。
2001年5月、筆者がサンクトペテルブルクの海軍文書館の読書室を訪れると、ミシャノフ氏からだといって1枚の文書のコピーを渡された。露暦1858年8月30日付アスコルド号艦長ウンコフスキーの海軍大臣コンスタンチン大公への報告の一部である。「露暦1858年7月14日、下田入港。翌15日、機関紙フィリップ・ユーディンが機関室のハッチを通って上甲板に出ようとして足を踏み外し、通風筒を通って機関室に転落し、頭蓋骨を傷つけ、二時間後に死亡した。」と書いてあった。海軍文書館の専門家の意見では、1858年7、8月に下田・神奈川で死亡したアスコルド号の乗組員はフィリップ・ユーディン一人だけという艦長の報告は信頼できるという。この時、私は10年前に同じ文書のコピーを海軍文書館で入手していることに気付いた。この文書の重要性が長い間わからなかったのである...