玉泉

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下田開港170周年に寄せて①

 1849年5月、英国軍艦マリナー号が浦賀、下田に来航した。ペリーの来航より4年も前のことである。英国は日本へのアプローチに長崎ではなく、浦賀と下田を選んだ。海洋調査、地形測量(名目上)のためであった。

 下田へは6月3日、柿崎沖まで入港し、上陸までしたために、下田、柿崎、須崎の3カ村の名主、年寄より代官江川へ注進致し、さらに柿崎村1村にて小田原藩主大久保殿役所へ飛脚にて注進届け出た。これによって小田原藩兵1300人が柿崎村に派遣された。この時、玉泉寺に本陣が置かれ、藩兵は村中の民家にそれぞれ分宿したことが、名主与平治の日記に記されている。

 支配管轄の韮山代官、江川英龍自らマリナー号に乗り込み、鎖国を理由に退去の交渉をした。マリナー号はおとなしく退去したのだが、この英国船に中国名で林阿多(リン・アトウ)と名乗る日本人が通訳として乗っていた。音吉である。37年モリソン号で日本に帰国したのだが、異国船打払い令によって砲撃を受け、帰国を断念した宝順丸の漂流民である。

 音吉は上海で、英国の商社「デント商会」の幹部社員まで登りつめ、上海で多くの日本人漂流民(栄力丸・永栄丸等)の世話をして、日本帰国に尽力し大いに活躍をした。54年の日英和親条約締結時には、ジョン・マシュー・オトソンの名で英国側通訳としても長崎を訪れている。しかし自身は生前の帰国は実現せず、シンガポールにて享年49歳で病死している。

 52年7月には、ロシア船メンシコフ公号(リンデンブルグ艦長)が下田に来航している。日本人紀州漂流民7人を送還するためであった。この時も韮山代官江川英龍が交渉している。日本側は漂流民の受け入れを拒否したため、彼らは日本人漂流民を中木沖にボートで放流し去っていった。漂流民の返還を理由に外交交渉を目論んだわけであるが、鎖国を理由に頑なに交渉を拒否したのである。

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