お吉物語の真実

OKICHI Story
of Truth

「お吉物語」その虚構と真実

まず、この物語はフィクションです。ただややこしいのは、史実の中にフィクションを溶け込ませている点です。
史実とは、お吉という女性が実在し、玉泉寺にわずか3日程度であるが召使いとして勤めた事です。その点以外のお吉に絡めた話はほぼフィクションといえます。
古文書にあたれば、お吉の職業は芸者ではありませんし、総領事館に長く勤めた事実もありません。世に出回っている「お吉」とされている写真は、間違いなく別人です。
この物語を多くの方が真実と思い込んでいますが、歴史を改ざんし、ハリスの人格・日本開国の功績を歪めていることは大きな問題です。史実に明らかなことは、ハリスが外交官として、命を懸けて、この日本を開国に導いた 事実しかありません。

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「お吉物語」その虚構と真実の全文

史実では、玉泉寺の初代アメリカ総領事館に、お吉やお福を含め五人の女性が召使女として勤めました。先ず最初に安政四年五月二十二日、吉(十七歳)が玉泉寺に出仕している。その五日後、二十七日ふく(福十五歳)が出仕している。この時期は、日米修好通商条約の前身となる下田協約の交渉が難航を極めていた時である。そこにアメリカ側からの召使い、看護婦の要求があり、日本側は条約交渉に有利にこれを利用できると考え、渡りに船と両名を送り込んだのである。その後、きよ、まつ、さよ、が出仕している。その出仕期間であるが、お吉については、ほぼ三日(給金4ヶ月)といえる。福は六か月、きよは一日、まつは一年、さよは五か月それぞれ勤めている。

物語ではお吉の生涯は、ハリスに長く仕え、この玉泉寺通いが原因となって、人々のお吉に対する蔑視と嘲笑に耐えきれず、酒に溺れ、世間から孤立し、貧困の中、身を持ち崩し五十歳でその生涯を閉じたストーリーとなっている。玉泉寺には五人の女性が勤めたのだが、物語ではお吉だけが唐人と追い詰められ、他四人は世間から追い詰められたとは一言も書いていない。世間という下田の人々は、お吉だけを狙い撃ちにした不思議なお話なのです。確かにこの物語は良くできていて、結末が哀れであり、涙を誘うものであるが、この「創り話」のややこしいところは、史実の中にフィクションを溶け込ませている点です。史実とは、お吉という女性が実在し、玉泉寺に三日程度であるが召使いとして勤めた事です。その点以外のお吉に絡めた話はほぼフィクションといえます。物語でお吉を追い詰めていったのは、当時の下田の町人達であり、よくこの物語を考えれば「いじめ」の話であって、下田市民としては恥ずかしい話です。この創り話を日本人の多くが真実と思い込んでいるが、歴史を改ざんし、ハリスの人格・日本開国の功績を大きく歪めていることは大変な問題なのです。

この物語は、昭和初年、新聞小説、歌謡曲、お芝居等で当時の日本人の反米意識に深く焼きついたのである。その後、観光に利用され、手を替え、品を替え現在に至り、心ない人々によって商売に利用され、あること無いこと「小説」に仕立て上げ、虚像を潤色し偶像にまで崇めてしまいました。もしこの物語が真実であるなら、お吉以外の四人の女性たちも同じように、追い詰められていくことになるのだが、そんなことは全く無かったのです。

因みに、物語ではお吉は売れっ子の芸者とされている。しかし、古文書によれば、仕事は下田港に入船してくる船乗りたちの衣類の洗濯等だったと記されている。また世に出回っている、十九歳のお吉とされる女性の写真は全くの別人である。「横浜写真」と呼ばれる、明治十年代以降、日下部金兵衛に代表される日本の写真家や、ファルサーリら海外の写真家が、横浜を舞台に撮った白黒写真に絵具で色付けしたカラー写真がある。そのなかに「士官の娘(Officer’s Daughter)」という写真があるのだが、この写真から色付けをとったものが「お吉の写真」として使われているのである。しかもこの写真は1880年代のものであり、お吉が19歳なのは1858~60年になりますので、「お吉」とされる写真の人物は全くの別人なのです。物語上での職業、出仕期間、写真等が虚偽であることから「お吉物語」は創り話であると断言できます。

史実に明らかなことは、激しい攘夷運動の中、ハリスが外交官としてその使命に燃え、命を懸けてこの日本を「東洋の孤児」から開国に導いた事実ということです。

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